ピンちゃんの赤貧日記

明日は明日の風が吹く
男の花道と男の嫉妬
0
    小学生の頃に憶えて以来の将棋ファンである。将棋界には羽生以前、羽生以後という分け方ができると思うのだけど、私は羽生以前の将棋界の頃に熱心に将棋を指していた。腕前は大した事はないけど、一番強かった頃でプロの棋譜を見てそれなりに楽しめるアマ初段前後だった。

    羽生以前の将棋界には一癖も二癖もある棋士が多くいたのだけど、とりわけ忘れられないのが芹澤博文(せりざわひろぶみ)八段である。一般的には「芹沢八段」と呼ばれることが多かった。芹沢さんは1936年生まれだから、その年代の棋士で八段ということは、順位戦でA級まで登りつめたことがあると分かる。

    昔は八段まで登りつめるのが一流棋士の証で、A級の中で最もよい成績を収めた者が名人への挑戦権を手に入れた。つまり、将棋界の頂点に立つのが名人であった。相撲取りなら横綱、政治家なら首相を目指すが如しで、昔の将棋界では名人が全プロ棋士(のみならず全国の将棋ファン)の憧れであった。

    芹沢さんは沼津の神童と呼ばれるほどの逸材で、若い頃は自他ともに認める名人候補であった。一方で、酒と博打が大好きで、問題発言も多いひとだった。放言が多かったのは、自分は将棋の天才であるという確信のなせる技だったはずである。豪放磊落というよりは、繊細さと豪胆さが共存した性格だった。

    1955年にプロの四段になり、3年ほど足踏みした後1958年C級1組に昇級。その後は毎年昇級し1961年に晴れてA級棋士の仲間入りをする。得意の絶頂であったと思う。そんな芹沢さんの将棋人生に翳りが見え始めたのは、2年でA級陥落してからである。

    芹沢さん一生の願いは将棋の名人になることで、A級に復帰しなければその願いはかなわない。しかしながら、2度とA級に返り咲くことはなく、もともと多かった酒量は更に増え、私生活は乱れていった。ときに放言を繰り返しても多くの人に愛されたのは、その明朗快活な性格にあった。芹沢さんの毒舌には湿っぽいしつこさは感じられなかった。

    芹沢さんは交友関係も幅広く──博打関係からだろうと思うのだけど、小説家の色川武大(阿佐田哲也)とも仲がよかった。芹沢さんは1987年、享年51で亡くなっているのだけど、『色川武大 (ちくま日本文学全集)』の中にある「男の花道」で芹沢さんとの交流と彼の死を書いている。私が読んだ中でも屈指の弔文であると思う。

    色川武大 (ちくま日本文学全集)
    色川 武大 筑摩書房 売り上げランキング: 394734

    むろん色川さんは芹沢さんが好きで、芹沢さんの愛すべき側面を突き放すでもなく、思い入れを込めすぎるでもなく淡々と描いている。しかしながら、晩年の芹沢さんの困った面についても軽く描写している。「俺が名人じゃないからって馬鹿にしやがって」。芹沢さんの魂の叫びである。酔うと仲のいい色川さんも閉口するほど乱れることが多くなった由。

    恐らくは、お酒の影響だったろうと思う。既に病気といってよい。可愛がっていた弟弟子の中原や米長が大棋士になり、自分はA級にすら復帰できないのだ。テレビでにこやかに語っている芹沢八段の面影を記憶している方も多いと思うけれど、あの愛すべき笑顔の陰に慟哭があった。テレビやエッセイで活躍する自分に対しても苛立っていたのではないだろうか。

    ・・・

    ここまで書いてきて、私は複雑な気分にならざるを得ない。芹沢さんは将棋指しとして一流にまで登りつめたひとだから、三流研究者で終わった私と比較するのは僭越であるし失礼ですらあるのだけど、スケールを千分の一くらいにすれば我が人生と似ているなと思わずにいられない。研究者としての道を諦めてから特段酒量が増えたわけでもない。昔から同じような飲み方を続けてきたから、そのまま飲んでいるだけである。

    それにしても、幾ら放言しても他人への気遣いは忘れなかった芹沢さんが(だから仲間が多かったのだ)、晩年には仲間も困ってしまうほどの酔態をさらしてしまったことに同情する。そして、現在の自分の行く末を見てしまう。私は実生活では仲間と呼べるほどのひとはいない。けれど、ネット上ではそれなりに仲のいい人や気に入ったブログなどがあるのだけど、最近のツイッターでの醜態は、もうどうしようもない。

    気をつけているつもりなのに、泥酔に近くなると自分でも止められなくなる。気づかないうちにストレスが溜まっているんだろうなと思いつつ、芹沢さん同様、お酒で神経か脳細胞がおかしくなりはじめているんじゃないかと疑っている。どうしたものかと困っているけれど、どうしようもない。

    JUGEMテーマ:日記・一般
    | エッセイ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
    御葬式あれこれ
    0
      高校生の頃だからもう25年以上前のことである。校門前の道の両側に全校生徒と教職員が並び、その間をけたたましいクラクションを鳴らしながら、霊柩車がゆっくりと走り去っていった。校葬とでも呼ぶのだろうか。

      棺の中に納まっていたのは私が通っていた高校の物理教師だった。何日か前から行方不明になっていて、とある湖で水死体として発見された。警察は自殺として処理したはずで、誰もが納得した。彼の奇行が目立ち出したのは1、2年前からだと聞いていた。

      突然授業中に黒板に頭を打ち付けたり、訳の分からないことをつぶやくことが多くなった。私は直接授業を受けたことはなかったが、そういう噂は早いのだ。校葬を執り行ったのは、校長先生のせめての手向けだったのだろうと今にして思う。話の面白い校長として人気があったけれど、きっと気骨もあったのだ。

      私は平凡な高校生で、先生は精神を病んでいたんだろうなと思い、それきり忘れていた。

      ・・・

      Mおっちゃんの御葬式は札幌のベルコで執り行われた。喪主は妻であるおばちゃん。拙ブログのエントリ「聖なる夜の裸電球」に出てきたふたりである。二人に子供はなく、札幌で長らくラーメン屋を営んでいた。経済的な余裕があったから、まだしも人並みの葬儀をだせたのだと思う。

      Mおっちゃんは長年の深酒が祟り、晩年は精神的にもおかしくなり入院していたから、おばちゃんもホッとしただろうと思う。おばちゃんは夫を亡くし、母は弟を亡くしたことになるのだけど、ふたりとも妙に冷静だったのが印象に残っている。それほど長くないと覚悟していたのだろう。

      学歴も人脈も何もなかったMおっちゃんが、日本の好景気の波に乗った形であったとはいえ、札幌でラーメン屋を切り盛りし、景気よく人生を過せてよかった。私が札幌に遊びに行くたびに無料でラーメンを食べさせてもらっていたあの店はもうない。

      ・・・

      Sおっちゃんは三男だった。母は女一人の長女で、その下に弟ばかり5、6人いた。人数がアバウトなのは、私が知らないくらい昔に死んだ兄弟がいたらしいのだけど、母はあまりその手の話はしないからよくわからないのである。Sおっちゃんは子供の頃怪我をして背骨が曲がってしまった。おかげで身長は140cmもなかった。

      可愛そうに思った祖母が手に職をつけさせようとしたのだろう、札幌の裁縫学校に通い、一定の技術を身につけた。私が高校生の頃までは裁縫で生計を立てていて、たまに遊びに行ったりしていたのだけど、高校を卒業してからの私は道外で17年ほど過すことになるので、その間の出来事はよく知らない。

      裁縫で生計を立てると言っても、下請けの縫い子である。それほど羽振りがいいはずもなく、或いは仕事がなくなったのか、パチンコ屋でしばらく働いていたようである。たまに帰省した時にそういう噂話を聞く程度で、ほとんど交流はなくなっていた。

      Sおっちゃんとたまに会うようになったのは、私が福岡から北海道へ戻ってからだった。本格的に不景気になり、Sおっちゃんはパチンコ屋を解雇され生活保護で暮らしていた。同類相憐れむでもないけれど、私も生活できるかどうかの瀬戸際だったから、たまに遊びに行ってしんみりお酒を飲み始め、酔うと昔話などで盛り上がっていた。

      Sおっちゃんの突然の訃報を知ったのは仕事中だった。すぐに監督さんに事情を説明し、葬儀場へ向かった。母と兄、末っ子のMおっちゃんと私だけの寂しい葬儀だった。それでも、Sおっちゃんの遺体が発見された経緯を聞き少し救われた気がした。知り合いが2、3日連絡を取れないことを不審に思い、部屋を訪れてくれ、それで発見されたそうである。

      気にしてくれる知り合いがいたんだと、胸を撫で下ろした。

      ・・・

      昨年のお盆、某工場でパトロールの仕事をしていた8月13日にK山さんは亡くなった。会社の先輩で、高校の先輩でもある。K山さんのお父さんが高校教師で、私も地理を教わったという縁があった。還暦少し前で、しばらく入院していたけれど、昨年の春先に退院して一度だけ仕事でいっしょになったことがあったから、手術が成功したとばかり思っていた。

      そういえば数年前から胃の調子が悪いらしいのは私も気づいていたけれど、本人もあまり大したことはないと思っていたようだ。だましだまし働きつづけ、いよいよ調子が悪くなってから病院で検査して、胃癌があちこちに転移して手をつけられないくらいになっていた由。春先に一度退院したのは、病院側の好意であったのか、ベッド数が足りなかったからなのか。いずれにしろ、助からないのは分かっていたようである。

      口は悪いが、心根のやさしいひとだった。

      ・・・

      会社の常務も昨年末に亡くなった。K山さんと同い年くらいである。社長の弟で、なんの仕事もしないで口だけ出すので煙たく思われていた。こうなると冷淡なもので、大した感慨はなかったけれど、実質何も仕事をしないで還暦近くまで生きられたのだから、そんなに悪い人生でもなかったんじゃないかと思う。

      会社内でもほとんど無反応だったけど、葬儀はそこそこのものだったはず。そういう人生もあるんだなと、しみじみ考えてしまう。

      ・・・

      一方で、私はどうだろう。母より先か後かで大きく違うのだろうけど、順調に母を送り出した後ならば、近しい係累は兄だけである。その他面識のある親戚は、その頃にはあちら側に逝っていておかしくない年齢の人ばかりだ。兄は悲しんでくれるだろうが、葬儀はSおっちゃんと同じく質素なものになるだろう。

      それで文句はない。別に葬儀なんてしてもらわなくてもいいくらいである。それが明日なのか10年後なのか分からないけれど、その日まで小さなことに一喜一憂しながら、適当に生きていくんでしょう。突然悲観的になって悲しんだり不安になったりしているのではないのだけど、40代も半ばになると、身の回りでの訃報が増えてくるものだから、自分が死ぬときはどんなかなと、漠然と考えたりするのです。

      JUGEMテーマ:日記・一般
      | エッセイ | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
      ある枝切り家族の肖像
      0
        最近たまにピンちゃんが「枝切り」の現場に入っていることは何度か書いてきました。大抵は半日仕事なんだけど、基本的には、電柱にかぶさっている枝を切る作業の警備です。この作業をやっているのは家内制手工業と言いたくなるくらいな家族総出の仕事です。

        本業は電気屋さんだそうで、平日は高所作業車を操って、電柱関連の仕事をしているらしい。

        らしいというのは、ピンちゃんの会社にオファーされるのは、大抵本業がない土日の枝切りの警備だからなのだけど、この家族が興味深い。大黒柱のD場さんはとてもいい人で、ピンちゃんたち警備員に対する態度はいつもひとなつこいのだけど、いっしょに仕事している家族に対しては厳しいものがある。

        特に、実の父親に対する態度は、いくらなんでもそこまでいわんでもと、ピンちゃんたち警備員の間でひそひそ噂になってます。ここで、土日の枝切りの仕事に出てくる家族構成を勝手に書いちゃうのだけど、大黒柱のD場さん、その妻、恐らくはD場さんのご両親の4名が通常です。数年前までは、小学生の娘さんがくることもあった。

        確かに、D場さんのお父上は非常にとろいひとです。こういう仕事は、現場にいって即座に車をどこに止めればいいか判断する機転が必要なのだけど、悲しいかなお父上はこの分野は苦手であるようだ。

        そうは言っても、電柱脇に植えてある街路樹などの枝を切るのが主な仕事なのだから、街中で近隣の人に迷惑をかけず、しかも素早く仕事を終えるための位置取りというのは、そうそう何種類もない。現場に行けば、だいたい答えはひとつかふたつしかない。

        もちろん、大黒柱のD場さんはすぐに分かって指示するのだけど、お父上は車の運転そのものが下手くそなのだ。指示された意味が分からない事もしばしばだし、分かってもその通り車を停められない。「お前、車から降りれ!」と叱責され、D場さんが代わりに運転する事もしばしばである。

        ピンちゃんが警備員を始めた約5年前から同じような感じで、もはやお父上が今以上に気が利くようになるはずはないので、今のような状態が続くのでしょう。それにしてもです、お父上に対してとても厳しいD場さんは、ピンちゃんたち警備員に対してはいいひとなのだから、性格が悪いわけではないのです。むしろ、性格がいいひとだとピンちゃんは見てます。

        それでも家族間のことだから、ついついきつい物言いになってしまう事情があるのかもしれない。まさか、そんなところにまで口を出すわけにはいかないから黙ってるけど、正直にいって、あんなにお父上を叱責しなくてもいいのにとピンちゃんは内心思っているのです。

        ・・・

        ここからはピンちゃんの単なる想像だけど、賭けてもいい。D場さんは、お父上が亡くなったとしたら、絶対号泣する。あれだけじれったく思っていた、あのグズな父親のために泣く。

        赤貧日記をコメント欄まで読む人なら、ピンちゃんがなぜこんなことを書くのかは分かってもらえるでしょう。ピンちゃんは、プーちゃんのコメントを読んで、悲しくなったとともに、頭にもきたのです。他人の人生や生き方に口を出すのは嫌いだけど、わざわざ赤貧日記のコメントに書かれたことだから、ピンちゃんが僭越なエントリを書いても許されるはずです。

        JUGEMテーマ:日記・一般
        | エッセイ | 00:00 | comments(4) | trackbacks(0) |
        お祭にまつわるエトセトラ
        0
          ここ数日、ピンちゃんは暑い暑いと際限なく書いてきたような気がするのだけど、なんとも恥ずかしいことです。ピンちゃんは昔からこらえしょうがなくて、子供の頃も叱られたことがありました。

          夏だったか秋だったか記憶は曖昧だけど、お祭で子供たちが賽銭箱をかついて家々をめぐるのです(たぶん、夏だった)。すると、おばちゃんやおばあちゃんが目を細めて玄関先や道路まで出て来て、半紙か何かにくるんだお金を賽銭箱に入れてくれます(男衆はお祭の実行部隊として忙しいのでしょう)。時々お菓子をくれることもある。

          そうやって町内を一巡りするのだけど、ピンちゃんは他に誰も不満を言ってないのに(我慢していたんだろうな)、足が痛いとかなんとか言ってしまい、大人のひとに怒られたことがあるのです。昔から根性がなかったんだなと思うと同時に、偏平足だから他の人より疲れやすかっただけではなかろうかと疑ったりしております(笑)

          ・・・

          で、集まったお賽銭を大人の人が勘定して、○年生は○百円とか決定して配ってくれるのです。記憶によれば、中学生は千円台くらいで、小学生は学年が下がるごとに減っていって、数百円貰えるのです。いじましいことを今更いうようだけど、参加者の人数と年齢分布は分かっているから、集まったお賽銭を過不足なく分配するのは可能だけれど、実はなかなかの難問です。

          それが割と短時間で分配金額が決まったのは(この時間がわくわくドキドキなのである)、決めた大人のひとたちが、かなり多くをとり、残った分を適当に分配していたからでしょう。お賽銭を集めた子供たちに最大限公平に分配するのではなく、最初から大人の取り分を考えて、残りを適当に分配したのです。

          それでも多少の時間を要したのは、お祭そのものにかかる経費なども考えてのことだろうから文句はないけどさ。例えば小学5年の時に500円貰えると、嬉しくなってお祭会場に行って「カタヌキ」とかしていたのです。

          当時のピンちゃんはテキヤさんのことなんて知らないから、複雑なのをくり抜ければ、ほんとに千円とか貰えると思っていたのです。当時は50円で1枚、百円で3枚「原版」を買って、後ろでバンバン打ち上げ花火がきれいに花開いてるのにわき目もふらず、虫ピンみたいなのでカリカリ削っておりました。

          そして、苦心して高いのが出来上がったと思い、恐る恐るテキヤのおじさんに見てもらうと、ここがデコボコだなと言われて、800円貰えると思っていたら100円で、がっかりするのです。もちろん、大人の人に文句を言うなんてことは出来なかった。

          中学生になっても同じようなことをしていたのだけど、ある日ある時、ひとつかふたつ先輩の中学生が同じように安く値切られて頭に来たらしい。テキヤのおじさんの目の前に自分のカタヌキ作品をポイッと放り投げた。痩せても枯れても香具師は香具師だから「おい、お前、なんだその態度は」ということになった。

          「足腰立たなくしてやるか、あー」。ピンちゃんは凍りつきながら事の成り行きを見守っている。先輩はちょっと不良っぽいひとだったから、こちらも後に引けない。このテキヤのひとはピンちゃんが小学生の頃から顔を知っている人で(毎年お祭になると来ていた)、気難しそうな感じではあったけど、そんなに怒っているのは初めてだったので驚いてしまった。

          この場は、となりのお店のおじさんが苦笑しながらやってきて、まあまあ、といういことで治まったのだけど、件のテキヤさんはカッパみたいな顔をしていて、とても小柄だった。七部袖の甚平から、なにやら模様が見え隠れしてる正真正銘の香具師。いまでも健在で、カタヌキ屋さんとして全国をまわっているのだろうか。

          ・・・

          北海道の昼はまだ蒸し暑いのだけど、そろそろ朝晩は冷涼な空気が感じられるようになってきました。日に日に秋の気配が濃厚になっていくのでしょう。あれ程恨めしく思っていた夏の暑さが過ぎ去れば、こんどは寒いと文句を言うようになる。毎年おなじことを繰り返しているなとあきれるのだけど、そうやってひとつづつ馬齢を重ねるしか他にしょうがないなと思ってます。

          JUGEMテーマ:日記・一般
          | エッセイ | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
          戦後65回目の黙祷におもう
          0
            北海道はとても暑い一日になったのだけど、65年前の広島はどうだったのだろう。過去に見たドラマや映画、小説などの記憶からすると、同じように暑い日だったはずです。戦況は日本の不利に傾いていることは知っていただろうけれど、広島に暮らしている人々は、いつものように1日の活動をはじめていた。

            何かを感じ青空を仰ぎ見た時、天空で太陽が破裂した。1945年8月6日、8時15分のことだったと言われています。

            ・・・

            毎年この時期は、日本人にとっては戦争の悲惨さと戦後の苦しみを思い出す時期で、更には日本人が犯してしまった過ちを反省する時期でもある。戦争には被害者と加害者がいる。そして、その両人がしばしば同一の人でもある。

            戦後に生まれ思い出したくても知らない世代は、戦争を知っている世代から話を聞かなければならない。だからテレビではそのような番組が企画される。これは健全なことだと思っています。戦争のない平和な世界を求める活動を、世の大人は女子供の理想論だと鼻で笑ってはいけない。

            具体性がなくとも、平和を求める魂がなくなれば世界はもっと荒れ果ててしまう。日本においては年に一度だけだとしても、それは貴重な日々なのです。広島に原子爆弾が投下された8月6日から、敗戦の8月15日まで──せめてそのあいだだけでも65年前を想像し、志半ばに亡くなった人々(それは日本人に限らない)のことを鎮魂してしかるべきです。

            ・・・

            「吉永小百合 被爆65年の広島・長崎」(NHK:19:30〜20:45)

            吉永小百合さんが地道に朗読を通して戦争の悲惨さを訴え続けてきたのは知っていました。まことに彼女は適役で、昔別の番組で、本人が朗読中に泣いてはいけないと語っていました。どんなに悲惨な話でも、冷静に淡々と語ることに意味がある。

            敗戦直後ならば、戦争の責任が誰にあったのか追及しなければ混乱を鎮めることはできなかったでしょう。そして、日本の混乱が治まった後なら、原爆投下の責任をアメリカに問わずにはいられなかったでしょう。

            しかし、戦後65年の時を経て、或いは朗読を始めたときから、吉永小百合さんは誰を責めるわけでもなく、戦争の悲惨さを朗読という行為を通して訴えかけてきました。決して感情的にはならず、涙を流さず、淡々と語ることで聴衆の魂を揺さぶってきました。

            ・・・

            奇しくも日本においてお盆は、戦争とは関係なく先祖の霊を供養する時期でもあります。それが理想論だっとしても、ピンちゃんは平和な方がいいなと思ってます。

            JUGEMテーマ:日記・一般
            | エッセイ | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
            CALENDAR
            S M T W T F S
                123
            45678910
            11121314151617
            18192021222324
            25262728293031
            << August 2019 >>
            RECOMMEND
            RECOMMEND
            RECOMMEND
            RECOMMEND
            RECOMMEND
            SELECTED ENTRIES
            CATEGORIES
            RECENT COMMENT
            ARCHIVES
            モバイル
            qrcode
            LINKS
            PROFILE