誰か識者が小泉純一郎についてまとめた評論を書いてくれないかなと思っているのだけど、いまだに手付かずの分野。大下英司の『
小泉は信長か―優しさとは、無能なり』というのはあるし、他にもあったように記憶するけど、まともなのがない。
政治と経済両方分かる人として、「
かんべえ」さんあたりの小泉感を書いて欲しいところだけど、彼は折に触れてご自身のサイトで書いてきた事以上は書かく気はないだろうし、そんな時間的余裕もないのでしょう。残念なことです。
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wikipedia 小泉純一郎
しょうがないので、まずは小泉純一郎のひととなりは、wikipediaでおさらいしておきましょう。
福田赳夫の書生を経て、1972年の第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来連続当選を果たす。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓や加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。
1942年(昭和17年)1月8日生まれと言う事だから、初当選の1972年には30歳。順調な政界デビューと言えるでしょう。祖父、父親の地盤を継いでの政界デビューだから3代目である。現在なら政治家の世襲は問題にされるけど、当時はそれほどのことはなかった。
神奈川県立横須賀高等学校、慶應義塾大学経済学部を卒業して、ロンドン大学に留学。1969年8月に父が急死したため帰国。
父の急死が小泉さんの政治家事始なのだけど、この辺の出来事に関して、アンチ小泉なひとびとはアンチ活動に余念がない(笑)。そもそもイギリスに留学したのは、レイプ事件を起こして云々。事実なら由々しき問題だけど、全く出所が明らかでない2ちゃんねるのコピペ以外ではそんな話を聞いたことがない。
もうひとつは、小泉さんが昔付き合っていた某芸者さんの死。それ自体は事実であるらしいけれど、どういう訳かネット上では小泉さんが殺したとかいう明らかな名誉毀損なコピペを毎日貼り付ける人がいた。鳩山さんとか菅さんが同じ事をされれば法的手段に打って出たかもしれないけど、当然小泉サイドは無視である。
それをいいことに、小泉政権時代の5年半は、2ちゃんねるではキチガイコピペが氾濫していた。
ほんと、意味が分からない。ピンちゃんの政治的な傾向を言えば自民党支持者で、選挙で自民党議員以外に投票したことはないけど、別に民主党議員を憎んでいたわけではない。単に、まだまだ能力的に足りないだろうと判断していたから、民主党議員に投票できなかっただけである。
それでも、鳩山さん率いる民主党が政権交代を実現してしまったからには、頑張って欲しいなと思っていたけれど、実際は何も出来ない。政治主導だ子供手当てだ、確かガソリン値下げ隊なんてのもあった。にもかかわらず、何も出来ていない。粛々と進んでいる部分は、民主党政権が敵視していた官僚がやってきたことでしょう。
民主党が与党になってから政治主導でやったことがあったら、それを箇条書きにでもして明らかにして欲しい。そうでもしてくれないと、一般庶民は民主党が何をやっているのか分からない。レンホーさんが何かやったとかやらないとか、それくらいしか記憶に残ってないのです(笑)。
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1978年にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫宮本佳代子と結婚した。この結婚に佳代子の父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。宮本家の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている。
wikipediaでは小泉さんの結婚生活の始まりはこう書かれているわけだけど、周囲の反対がありながらの結婚は、3人の息子をもうけながら破綻する。原因は分からない。長男の孝太郎は俳優になり、次男進次郎が地盤を継ぎ政治家になった。三男は、小泉元首相が離婚した当時母親のお腹の中にいて、その後一度も父親との対面は果たされなかったらしい。
その後小泉さんは順調に政治家としての地歩を固めるが、一匹狼であった。YKKとしてそれなりの存在感はあったにしろ、政界内部での評判は「変人」である。頑ななまでに他人からの贈答品などを拒否した事もその評判につながっただろう。なにしろ、御歳暮からバレンタインデーのチョコレートまで、値段の高低にかかわらず、すべて送り返したと言われている。
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1995年の参議院議員選挙で自民党は新進党に敗北、河野は続投を望んだが、平成研究会は政策通で人気のある橋本龍太郎を擁立した。小泉らの清和会は河野を支持したが、情勢不利を悟った河野が出馬断念を表明したことで、橋本の総裁就任は確実になった。無投票で総裁が決まることを阻止したい小泉らは森喜朗(清和会)擁立を図るが森が辞退したため、結局、小泉が自ら出馬することを決めた。
すでに大勢が決していた上に、郵政民営化を主張する小泉は党内で反発を買っており、出馬に必要な推薦人30人を集めることができたことがニュースになる有り様だったが、それでも若手議員のグループが小泉を推した(中川秀直や山本一太、11年後に小泉の後継首相となる安倍晋三もいた)。結果は橋本の圧勝に終わったが、総裁選出馬により郵政民営化論を世間にアピールして存在感を示すことはできた。
引用が長くなってしまったけど、これが最初の小泉さんの総裁へのチャレンジであった。本人も、周りの応援者も当選できるとは思っていなかっただろうけど、筋を通したって事なんでしょう。この時点から郵政民営化を言いつづけていたことは、政権内部の人なら当然知っていたし、多少とも政治に興味がある人の知るところにもなった。このぶれない態度が後に追い風ともなる。
1998年の参議院議員選挙、自民党は大敗を喫し、橋本は総理大臣を辞任した。後継として、小渕恵三、梶山静六と共に小泉も立候補したが、盟友の山崎・加藤の支持を得られず、仲間の裏切りにもあい、所属派閥の清和会すらも固めることもできず最下位に終わった(総裁には小渕が選出)。この敗北では大きな挫折感を味わい、敗北後の清和会の会合では、泣いている小泉の映像が残っている。
これが2回目の総裁選出馬であるけれど、小泉さん本人にとっては予想外の敗北であったらしい。特に悔しかったのは、盟友であると信じていたYKKの山崎択・加藤紘一の支持が得られなかったことである。小泉さん本人としては、前回は勝てなくてもいいから筋を通す戦いであったけれど、今回は本気で勝ちにいった。そこで期待していたふたりに袖にされた。
後年の用意周到な小泉さんのやりかたからすれば、直前まではYKの支持を取り付けていて、ある程度いい戦いができる目算があっての出馬ではなかったろうか。それが敗戦後の涙と、もう誰も信じないというコメントに繋がっているように思う。それでも個人名をあげての批判はない。小泉さんの政治家生活は短くないけれど、個人を直接批判したことはないんじゃないかしら。
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一応、この後に起こった「加藤の乱」にも触れるべきでしょう。wikipediaによれば、と引用しようと思ったけど長くなりすぎるからピンちゃんがまとめると、小渕首相が急逝した後、疑惑のなかで森喜朗が総理総裁に就任した。当然マスコミからは非難されまくる。密室の中で決めていいのか、と。
こうなると自民党を批判することが通常業務のマスコミの勢いは増す。森さんは鈍感なひとでマスコミのいい餌食になり、支持率は下がりつづけた。「神の国」発言などは今でも記憶されていると思うけど、とにかくこのままでは自民党そのものがまずいと考えた加藤紘一と山崎拓が、森おろしに動く。
そう、小泉さんの盟友YKである。この時の小泉さんは森派の会長としてふたりの動きを封じ込めた。このときの小泉さんに、前回の総裁選での意趣返しの思いがあったかどうかは不明であるが、内外に党内政治の実力は知れ渡った。逆に、加藤紘一は総理への道を断たれたと言ってもいい。
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森の退陣を受けた2001年4月の自民党総裁選に、橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香と共に出馬。もし敗れれば総裁選で3回負けることになり、政治生命にも関わるとも言われたが、清新なイメージで人気があった小泉への待望論もあり、今回は森派・加藤派・山崎派の支持を固めて出馬した。小泉は主婦層を中心に大衆に人気のあった田中眞紀子(田中角栄の長女)の協力を受けた。
3回目の挑戦で総理の地位を得たことに関しては、ピンちゃんがいちいち書く事もないでしょう。ここから小泉劇場が幕を開けることになるのだけど、この頃のピンちゃんは今ひとつ小泉さんは好きじゃなかった。田中真紀子さんを撒き餌にした人気先行の内閣に思えたから。ピンちゃんは真紀子女史がきらいなのだ(笑)。
その考えが変わったのは紛れもなく、2002年9月17日の小泉訪朝であった。これは、米国にも知らせずに秘密裏に北朝鮮と交渉し、日本のマスコミに突然一週間くらい前に発表された。こんな話が日本のマスコミに漏れたら、事前に潰されていたかもしれない。もちろん、アメリカ政府だって驚いた。寝耳に水だったのである。
アメリカは自分の知らないところでこんな大きな話を進められるのを好まない。しかし、小泉政権は実行したのである。この後の騒動は日本人ならみなさん記憶しているだろうけど、当然大騒ぎになった。北朝鮮側は適当な対応で日本からの経済援助を期待していただろうけれど、そうはならなかった。
珍しく日本人全体が怒ったのである。他国の人間を拉致しておいて恬として恥じない北朝鮮の態度に、日本人は激怒したのである。当然のことながら、最初の頃の日本のマスコミは、小泉批判も忘れてはいなかった。ほんと、日本のマスコミはバカだ。バカだけど、怒りの矛先は北朝鮮に向かい、しばらくアンチ北朝鮮な報道で食べていた。
その後も小泉さんは独自の手法──国民の高支持率を背景にした政権運営をしていた。初期の頃の田中真紀子更迭あたりで下がったけれど、平均支持率は50%を超えながらの退任である。本来なら、郵政民営化でのアクロバティックな手法にも触れたほうがいいのだろうけど、疲れてきた。後年になるほど小泉さんのことを憶えている人は多いだろうから、このへんの話はここまでである。
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○小泉純一郎氏 絶縁状態の三男に「お父さん」と呼ばれはにかむ
http://www.news-postseven.com/archives/20110227_13679.html
このエントリを書くつもりになったのは、実は上の記事を紹介したいからであった。アンチ小泉な人々は適当なことを散々書いているけど、小泉一家は長年の恩讐を超えて和解したようである。ピンちゃんみたいな小泉フォロワーは、三男に同情していたのだけど、ようやく長年のクビキが解けて和解したらしいことを喜んでます。
インターネット内には多い陰謀論の皆様方も、少し冷静になって物事を考えてはどうでしょうかな。