2008.12.24 Wednesday
聖なる夜の裸電球
あれは多分、40年程前のクリスマスだった。
「いいかい、ピンちゃん。いい子にして寝てないと、サンタさんにプレゼント貰えないからね」
「うん」
今にして思えば養父母がふたりで私へのプレゼントを買いにいったに違いないのだけど、それにしても、四十年も前のことをよく憶えているものだと自分でも驚いている。このとき私は二歳半だったのに。
・・・
養父というのは私の母の弟で、要するに叔父にあたる。当時は叔父も叔母も二十代で、結婚したばかりで、そして、まだまだ貧しかった。記憶に拠れば、住んでいたのは木造の二階建てで、一階が魚屋、二階がアパートという不思議な構造だった。部屋は六畳一間で流しはあったけれど、風呂は無くトイレは共同だった。
一階は魚屋だから、日中はとても活気があった。魚屋の裏手が遊び場で、ひとみしりする私はひとり三輪車で遊ぶのが常だった。二階の住居へ上る階段の上り口に、ちょっとしたスペースがあった。そこで魚屋特有の長めの白いエプロンを腰に巻いたおばさんが、ネズミ捕りにかかったネズミを、水の入ったバケツにつけて殺しているのを何度も見たように思う。
叔父夫婦に育てられたのは一年半だったから、私が二歳半から四歳くらいまでである。普通ならこんな幼児期のことなどほとんど憶えていないのに私が憶えているのは、記憶力がよかったからではない。父が事故で植物状態になり、にっちもさっちもいかなくなった母が兄と私を別々の親戚に預けたのだけど、余りにも環境が激変したから、二歳半だった私にも強烈な印象が残ったのだと思う。
・・・
叔父夫婦に育てられた一年半で、私は明るい部屋じゃないと寝られない、猫を怖がる子供になった。叔母が極端な猫恐怖症だったのだ。動物すべてが嫌いということではないらしいのだけど、猫が視界に入ると叫び声を上げかねないほどで、子供の頃に怖い体験があったのかもしれない。そういうひとに育てられれば、誰だって自然と猫嫌いになる。
明るい部屋でないと寝られないというのは、当時六畳一間に住んでいたからだと大人になってから思い当った。私は三才に満たない幼児だから早くに寝るけれど、叔父夫婦は起きている。部屋の明かりは点いたままなのである。
小学校低学年くらいまでは、親戚の家などに泊まるとき電気を消されると、怖くて心細くて泣きそうになっていたことを思い出す。
・・・
ここで最初の話に戻るのだけど、翌朝、目を覚ました私は、枕元にプレゼントを発見して大喜びで、大喜びする私の横で養母もニコニコしていた。確か、男の子が大好きなヘリコプターのおもちゃだった。今となってはなぜヘリコプターだったのか思い出せないけれど、当時のテレビ番組でも見て気に入ったのだろうか。
ヘリコプターを持ち上げ遊んでいるとき、天井からは裸電球がぶら下がっていたはずである。キリスト教徒でもなんでもないかりそめの親子の上で、毎晩私の寝顔を照らしていた裸電球が。
私が四歳になった頃、生活が安定した実母の元へ帰され叔母夫婦と会う機会は減った。実母との再会を喜んだのか、養母との別れを悲しんだのか不思議と憶えていない。でも、小学生の低学年までは養母のことを定山渓のお母さんと呼んでいて、そのことに何の疑問も持っていなかった。
高学年にあがると夜寝るときは電気を消しても平気になっていたし、定山渓のお母さんとも呼ばなくなったけれども、クリスマスになると当時のことをときどき思い出してしまう。そして、いつかおばさんに猫嫌いの理由を訊ねようと思いながら40年も果たせないままなのである。