さて、「ピンちゃんの赤貧日記」をさるさる日記上で始めたのが忘れもしない2001年9月22日(土)。時間は早朝の6時9分と記録されております。朝まで起きていて、発作的にテキストエディタで文章を書きあげアップしたんじゃなかったかしら。今ひとつその辺のことは憶えていない。
はっきりと憶えているのは↓のエントリが一番最初に書いたもので、「ピンちゃんの赤貧日記 がオープンしました」というのは、さるさる日記側が勝手に用意してある定型文で、最初のエントリを更新すると自動的に挿入されるようになっていた。従って、ピンちゃんがほんとに最初に書いたのは下の文章なのである。
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http://sekihin.jugem.jp/?eid=8)
皆様始めまして恥ずかしいけど赤裸々に赤裸々に
どのようなシステムかもよく分からないままに登録してしまいましたピンちゃんです。実は世の中のトレンドよろしく平成13年の9月いっぱいで目出度くリストラされることになり、もともと出不精な上これといった趣味も無い私いったいどのように生きていけばいいのかお先真っ暗な今日この頃です。そこで閃きました。暇つぶしに、もとい、生きていく糧を見つけるために日記を書いて皆様に公開しよう!なんと前向きな、なんとけなげな決意。われながら視界が曇ってディスプレイがよく見えなくなったのでございます。
もとより文章修行などしたこともなく、素人の落書きに付き合わされる方々には多大な迷惑をおかけすることになるかもしれませんが、しかししかし他にすることもない私皆様に喜んでいただけるよう無い頭絞ってがんばるつもりでございます。何とぞ何とぞお付き合いの程宜しく御願い申し立て祀ります。
さて、タイトルを「ピンちゃんの赤貧日記」といたしましたのは、他でもないピンちゃんこと私がほんとうに嘘偽りなく赤貧洗うが如し状態にあるからです。現在のの所持金1606円です。昨日までは160円くらいしかなかったんですが、ヘビースモーカーな私めは、食事はしなくともタバコだけは切らせられないという体質ゆえ、BOOKOFFになけなしのコミック40冊ほど持ってゆき2000円ほどの不労所得を手にいたしました。で、一箱150円のエコー数箱に変えて25日の給料日を待っているしだいでございます。といいましても先にもふれたとおり今月いっぱいでリストラ無職ヒッキーな私めでございますから、給料なるものを頂けるのも今月が最後でございます。この先どうなるかはわかりませんが命ある限り(笑)この日記は続けていくつもりです。ではみなさんまた明日お会いしましょう。
さよならさよならさよなら。
所持金:1606円ナリ
上の文章を投稿してから昨日で丸16年、今日から17年目に突入ということになります。35才だったピンちゃんも51才になったのだなと過ぎ去りし歳月が走馬灯のように脳裏を巡ってしまう今日この頃なのです。
平凡ではあるけれど、16年間という月日は長いようであっという間でもあったのだけど、ちょっとだけどういう経緯で赤貧日記をはじめたのか改めて書いておきましょう。
赤貧日記のはじめのほうを読めばある程度書いてあるけど、ちょうどこの頃は福岡にある某私立大学に勤めていて、ピンちゃんはとても鬱屈していた。28歳で物理学の博士号を取り29歳で某地方国立大学の助手にもぐり込めたから、実はかなり運がいい方で、前途は洋々としているはずだった。
それが数年経ちすっかりと自信を失っていた。今考えれば単なる怠け者で、もっとやる気を出せば辞める必要なんて全然なかったのだけど、すっかり神経衰弱になっていたピンちゃんは、人も羨むアカデミックポストを簡単に投げ出してしまったのである。大学内もごたごたしていたし、ちょうどいいや、後の事は何とかなるだろうと気軽に考えていたのだ。
2001年といえばバブルなんてとっくの昔に終わっていて、残り香すら消え失せていた時期である。それどころかバブル崩壊の後遺症が慢性化し、例え博士号を持っていようとも再就職は非常に厳しい時代だった。むしろ、博士号が足かせになったと言えるかもしれない。
身分相応に中小の予備校でも探せばなにかあったかもしれないけれど、ピンちゃんは人にものを教えるのが嫌いだったのだ。それに、大学受験のための物理を教えるのは研究とはまた別の難しさもある。他人にものを教えるということそのものがとても僭越に思えたし、他人の人生に対して数パーセントでも責任を負うのが嫌だったのである。
なので、どちらかといえば底辺の肉体労働のような仕事を探すことになり、いろいろあって北海道に逃げ帰り、、、
まあ、2001年9月以降の事は赤貧日記に書いてある通りなので、興味のある方は最初から読んでいただくことにしよう。
・・・
そんなこんなで16年経ってしまったけれど、一番強く心に残っていることは何だろうか。やはり一番は膵臓癌になったことなのは明らかだけど、それ以外で何かなかったかな。
──そう考えてみると、警備員の職を見つけて働き始めた頃の事が思い出される。実は筑波のKEKで学位を取ったあと半年くらい駐車場の警備員のアルバイトをしたことがあり、そのうすぼんやりした記憶から自分でもやれるかもしれないと申し込んでみたらあれよあれよという間に警備員の仕事が始まったのだった。
始めた当初は右も左もわからないし、ピンちゃんは物覚えが悪い方だし、会社は信じられないくらい忙しい時期だから何しろ大変だった。忙しくてみなさん気が立ってるし、中には嫌な野郎もいて、いよいよ我慢しきれなかったらあいつを殴り倒してからやめてやろうなどと思いながらも、ピンちゃんも生きるために頑張って働いていたのだ。お酒はを飲んで寝坊しまくりだったけど。
そうこうしてる間に警備員生活が10年も続き、会社の中では10年選手の中堅としてそれなりにでかい顔をするようになり、ようやく借金自転車操業生活から懐に余裕ができてきたと喜んでいるやさきに末期がんであることが発覚してしまったのだった。
ふーむ、16年間のことを短くまとめようと思っても無理があるし、興味がある人はやはり赤貧日記を古い方から読んでもらうしかないのだろう。そういうわけで、とりあえず元気な間はつづきますので、これからも赤貧日記の事を宜しくお願いします。
そんじゃーね