ピンちゃんの赤貧日記

明日は明日の風が吹く
新語・流行語大賞 in 2016「神ってる」
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    毎年年末になると各テレビ局が取り上げる新語・流行語大賞ですが、今年の大賞は「神ってる」に決定。世間ではあまり評判はよろしくないようですが、個人的にも初耳でした。

    『25年ぶりのリーグ優勝を果たした広島カープ。シーズン中の6月のオリックス戦で2試合連続の決勝弾を放った鈴木誠也外野手、試合後の談話でそれをたたえる緒方孝市監督が、「神懸かってる」と言うところを、いまどきの言葉を使った。「神ってる」。これはもともとネットの住人たちが汎用していたワードで、中高校生にとっては当たり前の表現だが、プロ野球というオヤジの世界で使われたことで異彩を放ち、2016年に輝く一語となった。』
    自由国民社のサイトから抜粋引用

    ふーむ、そういうことでしたか。ひょっとするとニュース番組のスポーツコーナーで耳にしたことくらいはあったのかもしれませんが、流行語としては意識していなかった。おそらく、野球ファン以外のひとはほとんど知らないのではないでしょうか。

    いったいどんな人々が選んだのかと気になりますが、以下の方々が選考委員なのだそうです。

    姜尚中(作家・聖学院大学学長)
    俵万智(歌人)
    室井滋(女優・エッセイスト)
    やくみつる(漫画家)
    箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)
    清水均(『現代用語の基礎知識』編集長)

    どういう基準で選考委員が選ばれているのか不思議ですが、とにかく上の面々が大賞以外にも10の流行語を選ばれたそうなので、そちらも列挙してみましょう。

    「聖地巡礼」「トランプ現象」「ゲス不倫」「マイナス金利」「盛り土」「保育園落ちた日本死ね」「ポケモンGO」「(僕の)アモーレ」「PPAP」「復興城主」

    こうして眺めてみると2016年に起こった出来事が思い出されるような気がするので、それなりに世相を反映した流行語と言ってよいのでしょう。都合11の言葉が選ばれている訳ですが、分野別に見ると、

    政治経済:「トランプ現象」「マイナス金利」「盛り土」「保育園落ちた日本死ね」
    芸能スポーツ:「神ってる」「ゲス不倫」「(僕の)アモーレ」「PPAP」
    エンタメ:「聖地巡礼」「ポケモンGO」
    その他:「復興城主」

    という感じでしょうか。こうしてみると「ゲス不倫」と「保育園落ちた日本死ね」は下品かなと思いますが、某有名芸能人の不倫騒動はたしかにかなり長い間お茶の間の話題になっていましたから、選ばれるのも分かるような気はします。

    最近では「これ流行語大賞に選ばれるんじゃない?」などという会話がかわされることも珍しくないくらいメジャーな存在になりましたから、下品な言葉は避けたほうがいいとは思いますけどね。

    ・・・

    新語・流行語大賞を選定しているのは自由国民社という出版社(「現代用語の基礎知識」発行)で、1984年に自主的にはじめたそうです。世間の注目を集めるようになったのはここ数年ですが、実は30年以上の伝統があったんですね。

    年末に1年を振り返るときのキーワードになる流行語ですから、楽しい言葉が多く選ばれるといいですね。
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    日本で死刑を執行された外国人は存在するか?
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      日本人の男に中国で死刑執行、大量の覚醒剤売買(読売)
      http://www.yomiuri.co.jp/national/20161021-OYT1T50015.html

      中国、日本人の男に死刑執行 8キロの覚醒剤売買の罪(朝日)
      http://www.asahi.com/articles/ASJBN6CRKJBNUHBI044.html

      気になるニュースがあったので調べてみる気になった。中国で日本人男性の死刑が執行された件である。読売新聞と朝日新聞はともに淡々と事実関係を記事にしているが、両紙とも大量の覚せい剤(8キロ)を売買した罪で日本人男性の死刑が執行され、中国で死刑が執行された日本人は7人目であるという基本的事実を述べている。相違点は、

      『中国政府は薬物犯罪に対して厳罰で臨んでおり、密輸目的で50グラム以上の覚醒剤を所持していた場合の最高刑は死刑となる。』(朝日)

      『 中国側から同省広州の日本総領事館に刑執行の連絡があり、北京の日本大使館は中国外務省に「高い関心」を伝えていた。』(読売)

      の部分である。読みようによっては、朝日は中国の法律だから死刑もやむなしという容認の姿勢を滲ませており、一方、読売は日本政府が中国側に「高い関心」を持って死刑執行を見守っていると伝えたことに言及している。微妙なニュアンスだが、朝日と読売ではこの件に対するスタンスに違いがあるようだ。

      2010年中国における日本人死刑執行問題

      この件をもう少し掘り下げて考えるためwikipediaの記述↑を参考にする。詳細は省くが、2010年3月の時点で中国には4名の日本人死刑囚がおり、同年4月6日に1名(赤野光信)、4月9日に残り3名(武田輝夫、森勝男、鵜飼博徳)の死刑が執行された。

      死刑を執行された武田、鵜飼が「八王子スーパー強盗殺人事件」について何らかの情報を持っている可能性があると日本で報道されたのでご記憶の方もいるだろう。

      この4名が『中国で日本人に対して死刑が執行されたのは、1972年の日中国交正常化以降初めてのこと』だったそうで、その後さらに2名、そして冒頭に引用してあるように2016年10月20日に7人目の日本人が中国で死刑になったことになる。7人全員が薬物犯罪で死刑になっている点について留意する必要があるだろう。

      この件に関しては日本政府の対応、中国での裁判の不透明性などの問題があるがこのエントリではそこまで踏み込まない。

      ・・・

      私が気になったのは、日本で死刑が執行された外国人はいるのかという点である。確か中国人でいたように記憶するが、欧米人はいなかったのではないか。その辺の事実関係について明らかにしたいと思いネット検索してみた。

      日本における死刑囚の一覧

      すぐに上のサイトが見つかったので眺めてみると、日本における死刑確定囚は明治維新後の1870年代から記録が存在するようである。興味深い情報が得られるサイトであるが、このエントリで知りたいのは外国人死刑囚についてである。日韓併合時代に朝鮮名と思しき名が見られるが、これは当然であろう。

      ただし、私が興味を持っている「外国人」死刑囚というのは国籍のことではなく、生まれも育ちも日本以外で、犯罪を犯したときたまたま日本在住、或いは旅行で日本に滞在していた──というような人物についてである。そういう条件を満たしているのは、

      「多摩市パチンコ店強盗殺人事件」の犯人は中国人だが死刑は執行されていない模様。

      「川崎中国人6人殺傷事件」の中国人は死刑執行。

      「春日部中国人夫婦殺害事件」は被害医者加害者ともに中国人。死刑は執行されていない。

      2010年中国における日本人死刑執行問題」からも関係する部分を備考欄から抜粋すると、

      『2016年現在、日本で死刑が確定している中国人は福岡一家4人殺害事件の犯人G、多摩市パチンコ店強盗殺人事件の犯人CとK、春日部中国人夫婦殺人事件の犯人Sの計4人がいるが、いずれも情状酌量の余地がないと日本の最高裁も断じた殺人犯であり、中国における日本人死刑囚とは事情が異なっている。また2009年7月には川崎市で中国人6人を殺傷する事件を起こした主犯格の中国人Cに対し死刑が執行された。』

      以上、私の記憶にあったように、日本には「外国人」の死刑確定囚が数名おり、うち中国人1名の刑が執行されたようである。最も気になっていた欧米系外国人については死刑確定囚が存在せず、従って刑を執行されたものもいないと思われる。

      ・・・

      日本における外国人犯罪の傾向などの分析は興味ある分野であるが、それは以降のこととし、本エントリはここまでとしておく。

      註:以上、暫定的な調査なので、新たな事実関係が判明した場合は加筆訂正することがある。
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      略式手続きによる裁判報告
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        平成25年2月24日、「自動車の保管場所の確保等に関する法律(以下、『保管場所法』と略す)」違反の容疑で警察署に呼ばれ、出頭した経緯については以前書いた(「晴れてピンちゃんも前科者」)。

        そして、今日が略式裁判当日である。2月24日に警官から場所と出頭時間などについての簡単な説明があったのだけど、9時から11時の間に出頭し、手続き順に略式裁判が行われるとのことだった。日本人は一般的に裁判なんて無縁に生きる人がほとんどだと思われるので、簡単にレポートしてみたいと思う。

        ・・・

        まず、簡易裁判所はすぐに見つけられた。初めての場所なので正面から車を入れると(後で気づいたが、建物の裏側にも駐車場があったようだ)、交通誘導らしき人が二人直立不動で立っていた。明らかに警備員ではなく、簡易裁判所の臨時職員みたいな雰囲気であった。指さす方に車を駐車してから建物の中へ入ると、何やら張り紙があり、矢印がある。

        入口の正面に大きな窓ガラスで仕切られた部屋があり、そこに数人の職員らしき人がいたが、出てきて案内する気はないらしい。戸外でふたりも直立不動で交通誘導させているくせに、ふざけたやつらだ。さほど広い建物ではないし、今日は「保管場所法」関係で略式裁判を受ける人がほとんどであろうと予想していたので、矢印の方に歩いていくと、目的の場所はすぐにわかった。

        部屋に入ると、驚いたことに20名ほどの人が既にいた。内部を観察すると、30名ほどが入れそうな待合スペースがあり、小部屋がみっつほどある。更に観察すると、警察、検察、裁判所に機能が分担されているらしい。特に説明は受けていなかったが、警察スペースの窓口に行き、前に警察署で貰ったピンク色の紙を差し出すと、代わりに115と書かれた小さなカードを手渡された。

        恐らく、101番から始まるカードなのであろう。私は15番目という事だ。時間は午前9時半だった。待合室に15人よりやや多い人数がいる理由はすぐに分かった。恋人や家族とともに来ている人もいるのだ。ちなみに、ピンク色の紙には「甲(直・検)告知票(番号 09-×××××)」と書いてあった。何のことだかは分からない。

        以前に酒気帯びで捕まったことがあり、その時も簡易裁判所へ呼び出されたのだが、その時の経験からすぐに終わるとは思ったが、念のため小説を持参してきたので、読みながら自分の番号が呼ばれるのを待っていた。しかし、意外に呼ばれるまで時間があった。といっても、15分かそこいらであろう。

        ほとんどの人が「簡易」とはいえ、裁判所に来たのは初めてあろうし、待合室には独特の緊張感と静寂に包まれていた。無駄口を叩く人はいない。小説を読んでいるのは私一人だった。読んでいたのは、大石英司著『対馬奪還戦争1』である。

        ・・・

        ようやく、警察ブースから呼ばれ入室すると、小さな机が三つあり、ふたつでは既に何やら説明を受けていた。まずは、本人確認のため、免許証の提示を求められたので素直に従い、次に、2月24日に警察署でとられた調書に書いてある事実関係に間違いがないかを確認された。

        これだけはきちんと説明しないといけないという感じで、起訴内容に不服がある場合は、略式裁判ではなく本式の裁判を受ける権利もあると説明してくれた。その場合は、改めて裁判の日程などを組む必要がるので追って連絡するとのこと。

        そんな面倒なことをする気はさらさらないので、調書の内容に誤りはないと答えると、ピンク色の用紙の裏にある「申述書」という欄へ日付と氏名を自著することを求められた。その通りにしてから押印した。これで、
         通常の規定による審判を受けられることもよくわかりましたが、略式手続きによって審理されることに異議がありません

        ──ということに、私が納得して受け入れたことになるらしい。法律関係の文章にしてはやや砕けていて興味深い。恐らくは、略式手続による審理というのは、法律的にはかなり微妙なものがあるのではなかろうか。日本国憲法か何かに抵触する恐れがあるので、本人に何度か念を押す必要がある印象を受けた。

        時間は10分かそこいらで警察ブースでの手続きを終え、ふたたび待合室で小説を読みながら待っていると、次は検察ブースから呼び出された。入室すると、また免許証で本人確認してから、略式手続でいいのか確認された。ここで、やはり本式の裁判を受けたいと言いだせば、そうなりそうであったが、そんなつもりはない。手短に異存ない旨を伝えた。

        私と面談した検察官は、上体を前に倒し、下から目を覗き込むタイプの丸刈りの男性であった。年の頃なら、私と同年代であろう。少なくとも昔はスポーツマンだったに違いないという雰囲気である。特に目を逸らす理由もないので、私も彼の眼を見ながら話した。

        丸刈り検察官の質問で重要だったのは、車を路上に止めたのは私本人かどうか、ということらしかった。自分の車ではあるけど、路上に放置したのは別人である、みたいな話になる事があるのだろう。まるがりの目を見据えながら、自分で停めたと事実を述べた。

        では、隣の裁判所ブースから呼ばれるので、待っていてくださいと丸刈りが述べたところで、ふと思いついて質問してみた。「これは、前科がつくということですか?」。意外な質問だったらしく、一瞬言いよどんだ後、思い直したらしく、前科は前科ですと不敵な笑顔で言った。私もネットで調べていたので知っていたけど、やはりそうかと思いつつ、笑顔で答えた。

        ・・・

        また小説を読みつつ待っていると、ようやく裁判所ブースから呼ばれた。ただし、窓口で名前と生年月日を確認されただけである。窓口の女性の髪の色はやや派手な茶色だった。年齢は手加減して50代である。どうも、私が昔通っていた飲み屋のおばさんに似ていたので注意深く眺めてみたが、どうやら別人のようであった。簡易裁判所の職員が飲み屋でアルバイトということはないだろうから当然ではあるが。

        最後にもう一度検察ブースから呼び出され、罰金5万円の刑であることを窓口で宣告された。これが判決という事であろう。昨日10万円用意していたので、その場で支払った。というか、その場で払うのが原則のようである。昨今の不景気であるから、5万円も支払えない人がいても不思議ではないが、彼らはそんな事態を想定しているようには見えなかった。さすがはお役所である。

        しかも、現金5万円を支払った後、領収書が出てくるまでまた時間がかかった。普通ならその場ですぐに領収書を手渡すべきなのに、能天気なことである。領収書を子細に眺めてみると、私が罰金を支払った先は、「苫〇牧区検察庁」であるらしい。私の後にも人が来ていて、全体で20名くらいはいた。どうやら、ほぼ全員が5万円の罰金刑であったようだ。

        今日の午前中だけで苫〇牧区検察庁は100万円からの収入である。

        (項)「懲罰及没収金」
        (目)「罰金及科料」

        というものを5万円支払い、私の略式手続による裁判は無事終了した。そして、晴れて前科一犯になったのだった。
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        鳩山由紀夫、蓄電池と普天間を語る
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          「我々は正義の味方だ」
          http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20120319/229946/?P=1

          最近は新聞記事そのものを取り上げてエントリにすることはなくなっていたのだけど、上の記事が凄いので、思わず書きたくなりました(笑)。

          まずは記者である篠原匡氏による、福島第一原発事故後の再生可能エネルギーに関する認識が示されます。簡潔にまとめられているので引用すれば、
           原発事故後、脚光を浴びる再生可能エネルギー。その動きと軌を一にして、蓄電池の重要性も認識されつつある。太陽光や風力などの自然エネルギーは日照や風向きで発電量にばらつきが出る。こういった不安定な発電が送電線網に与える影響も無視できない。

           だが、大規模な定置型蓄電池を設置して電力をためることで、この問題は解決できる。現在も課題になっている昼間と夜間の需給ギャップを平準化することも可能だ。現状ではコスト高を指摘されているが、今後のエネルギー問題を考えれば、蓄電池はカギを握る存在と言える。

          要するに、自然エネルギーというのは、太陽光にしろ風力にしろ天候任せの面があり、不安定である。この問題を解決する鍵となるのは蓄電池であると言ってます。これは事実で、大容量の電力を蓄電できれば、どのような発電方式にしろ、それは朗報になります。しかし、現実は技術上の問題で、効率のよい蓄電池は開発されていないと私は理解してます。

          篠原氏は「そのことに、国会議員も気づき始めた」と書いているけれど、こんなのはエネルギー問題に少しでも興味がある人にとっては大昔から常識でした。具体的に何が問題かといえば、エネルギーを溜めるとはどういうことか考える必要があります。物理学の基本的な法則のひとつに「エントロピー増大の法則」というものがあり、例えば薬缶でお湯を沸かしても、ほっとけば薬缶のお湯は冷えてしまう。

          薬缶の代わりに熱伝導率の低い物質で大量の熱湯を保管し、必要に応じて使うことにすれば、それなりにエネルギーを溜めたことにはなるだろうけど、エネルギー効率は著しく低いことは誰にでも分かる。概念的な話はやめて現実的な話をすれば、広義の蓄電池としては「揚水発電」というシステムがある。
          夜間などの電力需要の少ない時間帯の余剰電力を利用して、下部貯水池(下池)から上部貯水池(上池ダム)へ水を汲み上げておき、電力需要が大きくなる時間帯に上池ダムから下池へ水を導き落とすことで発電する水力発電方式である。揚水発電による発電量は、ロスのために使用電力量の7割程度である。すなわち実際上は、発電所というよりも、ダムを用いる巨大蓄電池、蓄電所と言うべきものである。

          wikipediaには上のように説明されているのだけど、現実的に考えれば、今後大規模なダムを建設するのは難しいだろうから、現在あるダムを利用できる範囲内でしか揚水発電は出来ない。
          民主党の一部議員は昨年7月、「蓄電池の普及および蓄電社会システム産業の国策的振興を目指す議員連盟」を設立、定置型蓄電池の普及に向けた勉強会を進めている。3月12日、蓄電池議連の会長を務める鳩山由紀夫・元首相に、大阪府堺市から伊丹空港に向かう車中で構想を聞いた。

          とにかく、大容量蓄電池が技術的に可能であれば、日本どころか世界中のエネルギー問題にとっての福音になることは論を待たない。そのことにようやく政治家も気づいたとして、この記事は始まっている。インタビューの相手は蓄電池議連会長の鳩山元首相である。

          ・・・
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          アイヌの概要: The Ainu People-3_1
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            History-1
            About 300 B.C., Honshu (Japan's mainland) experienced the Yayoi Period. Between the Yayoi and Muromachi Periods, Hokkaido experienced periods of earthenware cultures, such as the Zoku-Jomon Period, and the Okhotsk Cultre. The "Ainu Culture" emerged around 1400. According to one theory, the Satsumon Culture developed into the Ainu Culture through the influence of the Okhotsk Culture. However, this theory is not a provenone.
            In the mid-1440s, the Japanese extended their influence over southern Hokkaido, primarily Esashi and Matumae. Kater, they came to oppress the Ainu. To resist the oppression by the Japanese, the Ainu. To resist the oppression by the Japanese, the Ainu waged the Battle of Koshamain in 1457, the Battle of Shakshain in 1669, and the Battle of Kunashiri-Menashi in 1789. The Ainu lost each time. After losing the Battle of Kunashiri-Menashi in particular, the Ainu fell completely under the control of the Japanese.They remainded oppressed and exploited by the Japanease until the Maiji era.
            In the Meiji era, under the goverment policy of assimilation, the Ainu were prohibited from observing their daily customs. In 1899, the Hokkaido Aborigine Protection Act was passed. The act primarily aimed to provide relief for the Ainu and help them become engaged in agriculture. However, the act designated the Ainu as "former aborigines" and clarified the distinction between the Japanese and the Ainu. Im the kate Meiji era, with an increasing number of Japanese colonizing Hokkaido from Honshu, the oppression and exploitation of Ainu was replaced by discrimination against them. Discrimination against the Ainu still remains today.
            At the Hokkaido Ainu Convention in Shizunai, Hokkaido, in 1946, the Hokkaido Ainu Association was established primarily to provide higher education and collaborate in the construction of social welfare facilities. In 1961, the association changed its name to the Hokkaido Utari Association. The association is actively engaged in tackling various problems regarding the Ainu. In 1984, the Hokkaido Utari Association resolved that the Government should enact the New Ainu Law (tentative name) to replace the "Hokkaido Aborigine Protection Act." After that, the association conducted an active campaign to demand that the national government enact the New Ainu Law as soon as possible.

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