2017.10.15 Sunday
最後の靴
この靴を買ったのはいつだったかな。
考えてみても思い出せないけれど、仕事用にとオニューのこの安全靴をおろしてから何回も使ってなかったはずだ。パッと見はきれいだから間違いないだろう。
不思議なもので、病院へ向かう後部座席でどうもおかしいなと気づくまではなんでもなかったのに、一度気づいてしまうともうだめだ。あとは車に乗るたびに気になってしまう。これはやはり靴が臭うのだろうな。
自分でもすぐには気づかなかったくらいだから、運転手のみなさんにはばれなかっただろう。それにしても、数回しか履いてないのに、なぜ自分で気づくくらい臭うようになったのだろう。
今日は天気が良いから絶好の靴洗い日和だなと気づいたのは午前中、期日前投票へ行く途中だった。
冷たい風のせいで鼻をぐずつかせながら歩いているとき、急に思いついたのだ。
もう新しい靴を買うことはないだろうけど、車での送り迎えや買い物で外出することはある。後部座席とはいえ運転手さんに気づかれないとも限らない。それよりなにより、靴がくさいというのは気分が悪いじゃないか。
何も靴を洗うくらいで自分を鼓舞することもないのだけど、とにかく投票を済ませたら靴を洗おうと決めたのだ。決めたなら即実行。善は急げ、思い立ったが吉日というしね。
風呂場のバケツにお湯を張り、洗剤を溶け込ませてから靴を突っ込む。おっと、抜き取った靴ひもを入れ忘れてはいけない。さほど大きな足じゃないが左右両方をいちどに突っ込むと先っぽがはみ出てしまう。踵を上にしたり互い違いにしてみてもどこかがお湯から突き出てしまう。少しくらいいいじゃないかと思うかもしれないが、何しろこれが最後の靴なんだから完璧を期したい。
考えた末、バケツの上に洗面器を置き、そこに水を入れれば重しになると気づいた。我ながらグッドアイデアである。アメリカ人なら「It sounds good!」などと言うのかしら。
紅鮭とほうれん草のおひたしと、具の多いお味噌汁にごはん。
なかなか豪華な昼食のあと、お湯でうるかしておいた靴を洗い始めた。
仕事を辞める前は靴なんて外側がよほど汚れてから──つまりは内側だって汗や埃で相当汚れてからじゃないと洗わなかったのに、なぜ今回に限ってはやくに洗う羽目になったんだろう。暇人というのはいろいろなことが気になるものなのだ。
あれこれ考えてはみたけれど、にわかには思いつかない。
状況を整理して考えてみるに、普段なら気になるはずがない新品に近い状態なのに、なぜか足の臭いが気になったのだ。
つまり、、、うーん、これは仮説にすぎないが、ひょっとして鼻毛がないせいで嗅覚が鋭くなっているのではなかろうか。或いは、理由は不明だけど、突然変異で、いや、抗がん剤のせいで体質が変わって、急に足が臭くなったということもありえる。それどころか、そもそも臭いと思っているのは自分だけで、実は臭くない可能性だってある。
三流とはいえ元物理学者の端くれなのだから、ここは科学的、論理的に考え、ひとつづつ可能性を潰していくしかあるまい。
──ほんとうはそんなことはどうでもいいのだ。
靴を洗い終え、玄関先の手すりに靴ひもを引っかけると、あっという間に靴ひもが冷たくなった。10月半ばの風は冷たい。靴ひもにぶら下がっている本体は秋風にゆられ、踵の部分に水が溜まっている。何度かひっくり返して水を捨てるのだけど、すぐにしみだすように溜まってくるからきりがない。まあ、湿度も低いからすぐに乾くだろう。
そういえば、Oヘンリーの『最後の一葉』は葉っぱが落ちる話だから、というか正確に言えば落ちない話だけど、今くらいの季節だったのかな。飲んだくれの絵描きが主人公を救うなんて、あれは小説だからなあ。そんなうまい話があったらあやかりたいよ。
「この靴ひもが切れてしまったら、自分も死ぬ」なんて言っても誰も気にしてくれないだろうな。
ほんとに切れたら縁起が悪いし、余計なことは言わないでおこう。
明日の朝、玄関のドアを開けたら、靴ひもの代わりに針金でぶら下がってたりしてね。そうだといいな。
考えてみても思い出せないけれど、仕事用にとオニューのこの安全靴をおろしてから何回も使ってなかったはずだ。パッと見はきれいだから間違いないだろう。
不思議なもので、病院へ向かう後部座席でどうもおかしいなと気づくまではなんでもなかったのに、一度気づいてしまうともうだめだ。あとは車に乗るたびに気になってしまう。これはやはり靴が臭うのだろうな。
自分でもすぐには気づかなかったくらいだから、運転手のみなさんにはばれなかっただろう。それにしても、数回しか履いてないのに、なぜ自分で気づくくらい臭うようになったのだろう。
今日は天気が良いから絶好の靴洗い日和だなと気づいたのは午前中、期日前投票へ行く途中だった。
冷たい風のせいで鼻をぐずつかせながら歩いているとき、急に思いついたのだ。
もう新しい靴を買うことはないだろうけど、車での送り迎えや買い物で外出することはある。後部座席とはいえ運転手さんに気づかれないとも限らない。それよりなにより、靴がくさいというのは気分が悪いじゃないか。
何も靴を洗うくらいで自分を鼓舞することもないのだけど、とにかく投票を済ませたら靴を洗おうと決めたのだ。決めたなら即実行。善は急げ、思い立ったが吉日というしね。
風呂場のバケツにお湯を張り、洗剤を溶け込ませてから靴を突っ込む。おっと、抜き取った靴ひもを入れ忘れてはいけない。さほど大きな足じゃないが左右両方をいちどに突っ込むと先っぽがはみ出てしまう。踵を上にしたり互い違いにしてみてもどこかがお湯から突き出てしまう。少しくらいいいじゃないかと思うかもしれないが、何しろこれが最後の靴なんだから完璧を期したい。
考えた末、バケツの上に洗面器を置き、そこに水を入れれば重しになると気づいた。我ながらグッドアイデアである。アメリカ人なら「It sounds good!」などと言うのかしら。
紅鮭とほうれん草のおひたしと、具の多いお味噌汁にごはん。
なかなか豪華な昼食のあと、お湯でうるかしておいた靴を洗い始めた。
仕事を辞める前は靴なんて外側がよほど汚れてから──つまりは内側だって汗や埃で相当汚れてからじゃないと洗わなかったのに、なぜ今回に限ってはやくに洗う羽目になったんだろう。暇人というのはいろいろなことが気になるものなのだ。
あれこれ考えてはみたけれど、にわかには思いつかない。
状況を整理して考えてみるに、普段なら気になるはずがない新品に近い状態なのに、なぜか足の臭いが気になったのだ。
つまり、、、うーん、これは仮説にすぎないが、ひょっとして鼻毛がないせいで嗅覚が鋭くなっているのではなかろうか。或いは、理由は不明だけど、突然変異で、いや、抗がん剤のせいで体質が変わって、急に足が臭くなったということもありえる。それどころか、そもそも臭いと思っているのは自分だけで、実は臭くない可能性だってある。
三流とはいえ元物理学者の端くれなのだから、ここは科学的、論理的に考え、ひとつづつ可能性を潰していくしかあるまい。
──ほんとうはそんなことはどうでもいいのだ。
靴を洗い終え、玄関先の手すりに靴ひもを引っかけると、あっという間に靴ひもが冷たくなった。10月半ばの風は冷たい。靴ひもにぶら下がっている本体は秋風にゆられ、踵の部分に水が溜まっている。何度かひっくり返して水を捨てるのだけど、すぐにしみだすように溜まってくるからきりがない。まあ、湿度も低いからすぐに乾くだろう。
そういえば、Oヘンリーの『最後の一葉』は葉っぱが落ちる話だから、というか正確に言えば落ちない話だけど、今くらいの季節だったのかな。飲んだくれの絵描きが主人公を救うなんて、あれは小説だからなあ。そんなうまい話があったらあやかりたいよ。
「この靴ひもが切れてしまったら、自分も死ぬ」なんて言っても誰も気にしてくれないだろうな。
ほんとに切れたら縁起が悪いし、余計なことは言わないでおこう。
明日の朝、玄関のドアを開けたら、靴ひもの代わりに針金でぶら下がってたりしてね。そうだといいな。